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大磯八景
 
 

大磯における風光明媚な場所として選定された 8 箇所です。

昭和 38 年に揚鶴堂から齊藤松洲の画による大磯八景の絵はがきが発売されました。それ以前は写真を厚い台紙に貼っただけのもので、それを写真館や書店などで土産用として販売していたようです。以後、大磯で発行されている絵葉書のタイトルに「大磯八景」が多く用いられています。

現在は「大磯八景」というように 8 ヶ所の選定になっていますが、そもそもの始まりは元禄 8(1695) 年に鴫立庵に入庵して庵の基礎を整備した大淀三千風 (1639 〜 1707) が 18 景を選んで歌を詠んだことのようです。次いで鴫立庵 9 世庵主の遠藤雉啄 (1763 〜 1844) が磯山八景として俳句を詠んだと言われています。

明治 31(1898) 年に長谷川丸華が『大磯紀勝』に 12 景を紹介し、明治 38(1905) 年の大磯八景絵はがきの刊行へと至ります。

絵はがき発行元の揚鶴堂主人が、「古を汲み今を稽へ」て新たに現在に伝わっている 8 景を選んだとされています。「古を汲み」とは、大淀三千風の 18 景、雉啄の磯山八景、丸華の 12 景を基盤としていることは想像に難くありません。

現在、大磯八景に選定された地には、朝倉敬之氏が自費で建立した句碑が建てられています。

以上のように選定された大磯八景を、明治38年に発行された齋藤松洲画の絵葉書、朝倉敬之氏の詠んだ句、鴫立庵十七世庵主「神林時處人」が詠んだ句とあわせてご紹介していきます。

【高麗寺晩鐘】

「昔は高麗寺の晩鐘であったから、夕暮の物思に沈むときに此の音を聞けば、さぞ諸行無常を感じたであろう。今は、高来神社の鎮守の森と變 ( か ) わったから、氏子ども朔日十五日の朝未明、撞く此の鐘の音に夢醒めて、神魂爽快、天界に在るの年を起こす」 ( 大正 11 年刊『大磯案内』より )

鐘楼はかつて高麗山の山頂にあり、弘安 11 年の紀年銘をもつ大鐘が時を告げていたといわれ、その音色は伊勢原や厚木方面まで聞こえていたといわれています。

さらぬたに物思はるる夕間暮 きくぞ悲しき 山寺の鐘   敬之

夕紅葉 鐘の音谷に 沈みけり   時處人

句碑所在地 大磯町高麗二丁目 高来神社境内階段下

     

【小餘綾晴嵐】

「陽炎のちらちらと立昇る長閑な日、平松曲松の小餘綾浦に出て見れば、沖の方では櫓を操りて魚を釣る漁翁あり。磯の邊では裳 ( もすそ ) をかかげて貝を拾う少女がある。」( 大正 11 年刊『大磯案内』より )

晴嵐というのは、新緑の頃に吹く青嵐のことで、おそらく夏場の喧騒を前にした静かな海岸の様子を描写したものと思われます。

小松原けむるみどりに打ちはれて 見わたし遠く小餘綾の浦   敬之

秋晴や いろなき風の わたり来る   時處人

句碑所在地 現在、句碑は存在しておりません

【照ヶ崎帰帆】

「母は赤子を負日、童は籠を荷ひ、海邊に下立っている。大方夫の帰り父の戻りの遅いのに、待焦がれて居るであろう。船中釣獲た魚は果たして何であろうか。鯵か松魚 ( カツオ ) か将た鯛か。」 ( 大正 11 年刊『大磯案内』より )

数多くの岩礁が横臥する照ケ崎の美観と、白帆に風をいっぱいはらんだ小船が帰ってくる様は、旅情をかきたてるに充分な情景であったのでしょう。

いさり火の 照ケ崎までつづく見ゆ いかつり船や 今帰るらん   敬之

下す帆に 子ら呼びたてり 秋の浜   時處人

句碑所在地 大磯町南下町 町営照ケ崎プール脇

     

【化粧坂夜雨】

「松の並木の化粧坂。しとしと降る夜の雨。急ぐ道とも見えねども。菅笠深く旅衣。脚の疲れが杖重く。大磯さして辿り着く。淋しき闇のとばりにも、聞こゆるものは落葉踏む。草履の底の音ばかり。」 ( 大正 11 年刊『大磯案内』より )

化粧坂は、およそ坂のイメージとは程遠い。旧高麗寺村から旧大磯宿をつなぐ区間にあり、僅かな上り勾配がだらだらと続いている。鉄道の開通によって、坂の最も高い地点を線路が横切っているが、かつては昼なお暗いほどの松並木が延々と続き、周囲の自然と溶け込んで、実に風情のある場所だったことでしょう。夜雨というのは、おそらく「虎が雨」を意識したものと思われます。

雨の夜は 静けかりけり化粧坂 松のしづくの 音ばかりして   敬之

街道の 夜の静けさや 秋の雨   時處人

句碑所在地 大磯町山王町 旧東海道沿い土手の上

     

【花水橋夕照】

「日は高麗山に入りかかって、西の空は俄かに焦茶色に変った。花水川の水の色もきらきらと輝いて、倒に冩った高麗山の影を照している。波は黄金の花を浮べて、海へ海へとて流れて行く。未だ月は上らないが遠寺の鐘の音が聞える。」 」 ( 大正 11 年刊『大磯案内』より )

鎌倉時代、源頼朝が桜を見るために高麗山まで来たところ、一夜の嵐にして桜は散り果ててしまって花を見ることができなかったので花見ず川と呼ぶようになったといわれています。

高麗山に入るかと見えし夕日影 花水橋にはえて残れり   敬之

夕やけや かさなりている 鰯雲   時處人

句碑所在地 大磯町高麗三丁目 花水橋南側国道沿い

     

【鴫立澤秋月】

 「松の間から舊い草の庵を照らす月は、今でも頗るさびかへって見える。心なき西行の袖を濡させた昔の鴫立澤のつきは、果してどんなであったろう。」 ( 大正 11 年刊『大磯案内』より )

鴫立澤は西行法師ゆかりの景勝地として広く知られています。

さやけくも古にし石文照すなり 鴫立澤の秋の夜の月   敬之

秋の月 鴫も立たざる 夜なりけり   時處人

句碑所在地 大磯町茶屋町 鴫立庵入口

     

【唐ヶ原落雁】

「花水川の河口葭葦の茂った 處、月影の冴えた晩などには、雁の親子打連れて落来り、草枕を求めることもある。十郎兄弟が雁を羨み、己等の父のないのを歎いたのも、或は此処の邊ではあるまいかと、昔が偲ばれる。 」 ( 大正 11 年刊『大磯案内』より )

東海道の花水橋付近から河口域にかけては花水川や中小河川の後輩湿地が広がっていました。ここは古くから唐が原 ( もろこしがはら ) と呼ばれて多くの歌や紀行文に紹介されています。さらにその名から渡来人伝説にかかわる地としても知られています。広々とした湿原の彼方に月光さざめく海を望む情景は、まさに絶景であったことでしょう。

霜結ぶ 枯葉の葦におちて行く  雁の音寒し 唐が原   敬之

雁の行く 月の海原 帰りけり   時處人

句碑所在地 大磯町東町三丁目 土手

     

【富士山慕雪】

「袷を着ても猶肌寒きを覚える。海水浴場の茶亭はすでに取り払われて、照ケ崎には人影も見えない。西の方芙蓉峯は雪の肌を夕霧に包ませている。落ちかかる秋の日は、冷たい砂原を斜めに射て、大島の翠烟も次第に次第に消えて行く。」 ( 大正 11 年刊『大磯案内』より )

くれそめて 紫匂ふ雪の色を みはらかすなり富士見橋の辺   敬之

黄昏の 雪ややさむし 浦の富士   時處人

句碑所在地 大磯町東小磯 富士見橋際

     

 

 

引用・参考資料 『大磯町郷土資料館企画展 なつかしの風景V 史跡と名勝』

 
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