明治18(1885)年、松本順が大磯海水浴場を開設しました。明治20(1887)年には祷龍館が開館、また大磯駅の開業、鉄道の開通も重なり、保養・療養の目的で大磯に多くの著名人が長期滞在や別荘を建築するようになりました。
大磯にはなんと8人もの宰相が別荘もしくは邸宅を構えたのです。
その8人とは…
伊藤博文・山県有朋・大隈重信・西園寺公望・寺内正毅・原敬・加藤高明・吉田茂

伊藤博文 |

山県有朋 |

大隈重信 |

西園寺公望 |

寺内正毅 |

原敬 |

加藤高明 |

吉田茂 |
【別荘第一期 (明治18(1885)年〜)】
松本順の人脈から大磯での別荘所有が広まっていきました。と同時に、明治17(1884)年の政令により華族に列せられた旧公家や大名、明治政府高級官僚などの間に広まっていき、その後第二期へと続く政治的領袖による別荘建築へと続いていきます。

後藤象二郎 |

林董 |

三島通庸 |

西周 |

樺山資紀 |

大倉喜八郎 |
| 明治18年 |
吉田健三 ( 貿易商、後の総理大臣 吉田茂の養父 ) |

旧岩崎弥之助別邸離れ |
| 明治20年 |
山県有朋が小淘庵 ( おゆるぎあん )
(第3・9代内閣総理大臣) |
| 明治21年 |
高木兼寛 ( 海軍軍医総監 )
三島通庸 ( 警視総監 )
林 董 ( 外務大臣、松本順実弟 ) |
| 明治22年 |
後藤象二郎 ( 逓信大臣、農商務大臣 )
橋本綱常 ( 陸軍軍医総監 )
浅野総一郎 ( 浅野財閥 )
大倉喜八郎 ( 大倉財閥 ) |
| 明治23年 |
樺山資紀 ( 海軍大将、白洲正子の祖父 )
岩崎弥之助 ( 三菱財閥 2 代目 ) |
| 明治24年 |
山内豊景 ( 旧土佐藩主家当主 )
徳川義禮 ( 旧尾張藩主家当主 ) |
| 明治25年 |
西周 ( 貴族院議員、教育家 ) |
| 明治26年 |
ジョサイア・コンドル ( 建築家 ) |
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| ・・・その他多数 |
【別荘第二期 (明治27年〜)】
明治政界を形成する中心人物による建築ラッシュの時期です。
| 明治27年 |
陸奥宗光 ( 外務大臣 ) |

伊藤博文の邸宅 滄浪閣(明治期) |
| 明治29年 |
伊藤博文(初代、第5・7・10代内閣総理大臣)
原敬 ( 第19代内閣総理大臣 )
鍋島直弘 ( 旧佐賀藩主家当主 ) |
| 明治30年 |
大隈重信(第8・17代内閣総理大臣) |
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| ・・・その他多数 |
明治 30 年、政界の中心人物である伊藤博文が本籍を大磯に移してからは、伊藤の邸宅・滄浪閣が政治の中心舞台となっていきました。その所以もあり、京浜の名士たちの大磯別荘建築ラッシュがはじまり、明治 30 年には 100 戸ほどであった別荘が明治 38 年には 160 戸を超え、その後も続々と増え続けました。
また、明治30年代後半になると実業家の建築も目立つようになってきます。
| 明治31年 |
三井高棟 ( 三井財閥 ) の城山荘 |
| 明治32年 |
西園寺公望(第12・14代内閣総理大臣)の隣荘
(伊藤博文の滄浪閣の隣に建築されたことより「隣荘」)
尾上菊五郎 ( 歌舞伎役者 ) |
| 明治34年 |
古河市兵衛 ( 古河財閥 ) |
| 明治35年 |
加藤高明 ( 第24代内閣総理大臣 ) |
| 明治39年 |
三井守之助 ( 三井財閥 )
真田幸正 ( 旧松代藩主家当主 ) |
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| ・・・その他多数 |
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旧三井高棟邸

旧三井守之助邸 |

海内第一避暑地の碑
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明治41年日本新聞社実施の全国避暑地百選の投票の結果、なんと大磯が第一位となり、大磯駅前に「海内第一避暑地の碑」が建てられる。 |
【別荘第三期 (明治末期〜)】
明治末期から大正以降になると別荘の数自体は増加していますが、転出する著名人 ( 明治 40 年に山県有朋、大正5年に西園寺公望、大正 10 年に伊藤博文夫人の伊藤梅子 ) も増え、転入する者は実業家を中心とした中産階級が目立ち始めます。
| 明治44年 |
井上準之助 ( 大蔵大臣 ) |

安田善次郎邸 |
| 大正2年 |
梨本宮守正 ( 宮家、陸軍大将 ) |
| 大正6年 |
安田善次郎 ( 安田財閥 )
池田成彬 ( 大蔵大臣、三井銀行常務 ) |
| 大正7年 |
寺内正毅 ( 第18代内閣総理大臣 ) |
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| ・・・その他多数 |
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大正10年には別荘所有者は202名に達し、その大半が京浜の在住者でした。
別荘の特色と時勢 【別荘建築の特色】
第一期〜第二期の明治中期の頃の別荘建築は、西小磯や高麗、東小磯の浜辺近くや高麗山の麓を中心とした、小高い丘の眺望の良い場所に広い屋敷地が好んで選ばれ、大邸宅が多く構えられました。
洋館部や和館部を別にした造りや母屋が100坪を超える邸宅も多く見られます。
第三期の明治末期からは実業家や商店主、会社役員などが5〜60坪程度の中規模な洋風住宅を多く構えました。
【関東大震災発生】
大正12年に関東大震災が発生し、大磯においても家屋の倒壊は少なくありませんでした。
別荘も同様でほとんどが全壊・大破し、震災を境に別荘数は半減。
その後の再建、復旧は進まず、別荘の名義異動は進み、戦中期へと向かうこの時期には、普通邸宅と見まごうような中間層所有の中小規模の和風建築が目立つようになりました。
【震災以降】
震災により一時避難してきた人々がそのまま移り住んだり、一般庶民による別荘所有が増えました。
又、この頃は多くの文化人が大磯に移り住むようになりました。
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【昭和以降】
戦後昭和 21 年の公職追放、財閥解体、財産税徴収により上流階級の別荘は売却され、東京に引き上げるものが多く、売りに出された別荘は個人が再び別荘として購入するケースは少なく、企業などが買い取り寮として利用されるケースが多くありました。
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島崎藤村 |

旧島崎藤村邸 |
| 昭和7年 |
住友寛一 ( 住友財閥 ) |
| 昭和12年 |
中村吉右衛門 ( 初代吉右衛門、歌舞伎役者 ) |
| 昭和16年 |
島崎藤村 |
総理大臣を務めた 吉田茂(第45・48・49・50・51代内閣総理大臣)は、幼少期より養父である吉田健三が大磯に購入した邸宅で過ごし、首相在任中には週末を、退任後には隠棲しました。
退任後も吉田茂の影響力は絶大で、多くの政治家が吉田のもとに通い「大磯詣」と称されました。最期もこの邸宅で迎えました。
| 旧吉田茂邸 |
 本邸と庭 |
 1階客間 |

1階食堂 |
 2階居間 |

吉田茂銅像 |
( 吉田茂邸は平成 21 年に焼失し、現在再建に向けた基金活動中です。 )

大磯が 「明治政界の奥座敷」と称されるのが、おわかりいただけましたか。
とはいっても、政治的領袖のみならず、三井・三菱・浅田・大蔵・古河らの財閥や長州・土佐などの藩閥、梨本宮ら宮家も別荘を構え、大磯は療養地・避暑地・避寒地として大いに繁栄しました。
→大磯別荘群地図【PDF:2572KB】
→明治政界の奥座敷・相関図【PDF:182KB】
※ 人物写真は国立国会図書館ウェブサイトより転載
※吉田茂写真は内閣広報室提供
参考文献 『大磯町史』 ( 大磯町 )
『大磯のすまい』 ( 大磯町 教育委員会 )
協力 大磯町 郷土資料館 |